[浅草名所七福神]

[浅草名所七福神] (あさくさなどころしちふくじん)概要
[ご開帳日]1/1〜3 9〜18時/1/4〜7 9〜17時/1/8 9〜16時
[歩行時間]約2時間15分
[歩行距離]約7.8km
[最寄り駅]東京メトロ銀座線「田原町駅」
東京メトロ銀座線、都営地下鉄浅草線、東武伊勢崎線(東京スカイツリーライン)「浅草駅」

※日時等は通年のデータとなります。状況によりご開帳や御朱印受付期間が異なる場合があります。

江戸の賑わいを感じながらめぐる、浅草の七福神。雷門でゴール。

浅草名所七福神のモデルコース案内]
田原町駅 0.6km/ 10分 →矢先稲荷神社(福禄寿)1.4km/ 25分 →鷲神社(寿老人)0.3km/ 5分 →吉原神社(弁財天)1.7km/ 30分 →橋場不動尊(布袋尊)0.4km/ 7分 →石浜神社(寿老神)1.5km/ 25分 →今戸神社(福禄寿)0.4km/ 7分 →待乳山聖天(毘沙門天)0.9km/ 15分 →浅草神社(恵比寿)0.1km/ 1分 →浅草寺(大黒天)0.5km/ 10分 →浅草駅

【福禄寿】矢先稲荷神社(やさきいなりじんじゃ)

福禄寿

 寛永19(1642)年11月23日、時の三代将軍徳川家光公が国家の安泰と市民の安全祈願ならびに武道の練成のために、江戸浅草のこの地に三十三間堂を建立しました。
京都の三十三間堂にならって建立されたこの堂の守護神として稲荷大明神を勧請し、その場所がちょうど的の先にあたっていたので「矢先稲荷」と名づけられました。いまからおよそ360年前のことになります。
 矢先神社のご神像は拝殿右手に奉安されています。
寿の象徴の鶴をはべらせ、白髪白髯、調和のとれた円満な福相をされており、人の最高理想の姿をあらわしています。

【寿老神】鷲神社(おおとりじんじゃ)

寿老人

 江戸下町を代表する神社で、開運、商売繁昌、家運隆昌、子育て、出世の神徳が深いとされ、「おとりさま」と称されて古くから江戸下町の民衆に篤く尊信されてきました。
 鷲神社の創始についてはもとよりつまびらかではありませんが、ご祭神の一柱の天日鷲命(あめのひわしのみこと)は諸国を開拓して産を興した殖産の神として知られています。ご祭神のもう一柱である日本武尊(やまとたけるのみこと)は後に東征の帰途、当社の松に熊手をかけて勝ち戦のお礼参りをされた日が、ちょうど11月の酉の日であったことからその日に神様をおなぐさめする祭が行われるようになり、それが酉の市のはじまりなのです。

【弁才天】吉原神社(よしわらじんじゃ)

弁才天

 吉原神社のご祭神は、稲荷神である倉稲魂命(うかのみたまのみこと)と弁天様である市杵嶋姫命(いちきしまひめのみこと)で、開運、商売繁昌、技芸上達などのご神徳です。
 新吉原遊郭には古くから鎮座されていた玄徳(よしとく)稲荷社、それに廓内四隅の守護神である榎本稲荷社、明石稲荷社、開運稲荷社、九朗助稲荷社が祀られておりました。この五社が明治5年に合祀されることになり「吉原神社」として創建されました。
 市杵嶋姫命(弁財天)は、遊郭の土地造成でできた弁天池に祀られ、関東大震災の後に遊郭の守護神に加えられました。そのお顔は童女のような清純さと優しく美しい面立ちの座像で、女性の愛と苦しみを清めて包み込む救いのお姿です。

【布袋尊】橋場不動尊(はしばふどうそん)

布袋尊

 天平宝字4(760)年、奈良東大寺建立に尽力のあった高僧良弁僧正の第一の高弟寂昇(じゃくしょう)上人によって開創されました。現在は比叡山延暦寺の末寺となっています。
 不動院のご尊像は江戸時代のころから伝わるもので、肩に袋がなく、お腹が袋代わりの形をしている珍しいものです。大きな度量、清く正しい行為の福を授けてくれる布袋様そのものといったお姿で、古くから江戸庶民に尊信されています。

【寿老神】石浜神社(いしはまじんじゃ)

寿老人

 聖武天皇神亀元(724)年9月、勅願によって当地に鎮守され、源頼朝が藤原泰衡征討の折、当社に祈願して「神風や 伊勢の内外の大神を 武蔵野のここに 宮古川かな」と詠み、大勝の目的を果たしたので後日、社殿を造営寄進し、神恩に報いました。
 亀田鵬斎の隅田川詩碑、「伊勢物語」の都鳥の碑などもあり、また石浜鳥居は独特なものです。
寿老神が祀られているのは、末社のひとつである真先稲荷です。

【福禄寿】今戸神社(いまどじんじゃ)

福禄寿

 後冷泉天皇康平6(1063)年、時の奥羽鎮守府将軍伊豫守源頼義・義家父子が、勅命によって奥州の夷賊阿部貞任(あべのさだとう)・宗任(むねとう)の討伐の折、篤く祈願し鎌倉の鶴ヶ丘と浅草今之津(現在の今戸)とに京都の石清水八幡を勧請したのが今戸八幡(現在の今戸神社)の創建になります。
 今戸神社に祀られる福禄寿は、白髪童顔の温和な容姿で、福の神として人々の尊信を集めています。

【毘沙門天】待乳山聖天(まつちやましょうてん)

毘沙門天

 古い縁起によりますと、推古天皇3(595)年9月20日、突然この土地が小高く盛り上がり、そこへ金龍が舞い降りたと伝えられています。当山の紋章には巾着と二股大根が組み合わされており、巾着は砂金袋のことで商売繁盛を、二股大根は無病息災、夫婦和合、子孫繁栄をそれぞれ意味し、大聖歓喜天の福徳を示しています。
 待乳山聖天に祀られている毘沙門天は、大聖歓喜天の守り神として古くから奉安されており、当山の浴油祈祷という厳しい修行にふさわしい凛とした木彫像です。ふだんは、内々陣に奉安されているが、1/1~中旬は、内陣に祀られお参りもできる。

恵美寿神浅草神社(あさくさじんじゃ)

恵美寿神

 推古天皇36(628)年3月18日、隅田川で漁をしていた檜前浜成・竹成兄弟の投網に観音ご尊像が現出なされました。
真中知の歿後、嫡子が観音様から夢告を受け、それ以来、祖先神、郷土神を祀る「三社権現社」として篤く祀られることになったと伝えられています。明治の神仏分離令により「浅草神社」と改称しました。
 浅草神社の恵比須ご神像は、極彩色の見事な木彫りで、そのお姿は大変温和であり、古くから浅草寺の大黒天と対をなして信仰を集めてきております。

【大黒天】浅草寺(せんそうじ)

大黒天

 推古天皇36(628)年3月18日未明のことでした。今の隅田川に投網漁をしていた漁師の檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)兄弟の網に一体の仏像がかかりました。それを豪族の土師真中知(はじのまなかち)は、尊い観音像であることを知り、深く帰依して自宅を寺とし、その観音像を奉安し、礼拝供養に勤めました。これが浅草寺のはじまりです。
 浅草寺に祀られている大黒天は、俗にいう米びつ大黒として江戸以来市民の崇敬を集めています。ふだんは弁天山の弁天堂内部に安置されていますが、12月下旬から1月下旬は、御朱印所の祀られ拝むことができます。

当日の情報はこちらからご確認ください。
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